泣けた

バレエで、サルサで、

日本で、アメリカで、

頂く言葉ひとつひとつが

 

ずっしり響いてくる。

 

こうやって、

踊りから離れては誰かに励まされ、

閉じ籠ってはこじ開けられ、

 

結局、

 

中毒者みたいに

ずっと踊っているんだろうなあ、

有り難いことに。

 

あきらめて踊ろっか。

だいぶ前に書いたらしい

あ、この人。って、

自分が好きになる人が、

だいたい初対面でわかる。

 

それって、相手の条件をみて、

自分が好きになろうとするから?

と思ったこともあるんだけど、

たぶん、違う。

 

条件揃ってても

どうしてもきびしいときはあるし

逆に好きか?って言うような条件でも

すとんとはまるときもあるし。

 

すん、と、惹かれる。

すとん、と、落ちる。

 

 

 

無駄というか興味の外というか

「無駄なこと」が楽しい

 

最近、ちょっと思うところがあって
自分が無駄かな~興味ないな~

と捉える事をする時間を
意識的に持とうとしていて、

 

たとえば苦手な人に会う時間をとるとか、
たとえば夜中に携帯をいじるとか、
色々してみているのですが
意外と、楽しいなあと思っている自分がいて

自分の頭のなかで決めこんでいたら
とてもじゃないけどやらなかったなあ
と、
思うことがたくさんあるわけで、

 

言葉と一緒で、
その言葉の意味を自分が知っている
その行動の善し悪しを自分が知っている
と思うのはわりと驕りだったなあと、

 

たとえば私にとって踊ること議論することは

「興味の範囲内」「楽しいこと」


苦手な人に会うこと携帯を夜中いじることは

「無駄な時間」「興味の範囲外」

なのだけど、


他の人の範囲を見てみると
自分の持つ「区切り」とはだいぶ違うところに
彼らの「区切り」「線引き」があったりして

 

その「区切り」を外したりくっつけたりして
上手く付き合ってる人が
とても魅力的だなあと思うのは、
これだと思いこむことが少なかったり
言葉や概念に操られないように見えたり
するからかも、と

 

ここまで一文で繋げるという
しょーもない「無駄」を楽しんでみましたまる

ばうんだりーとはまた違う何か

最近、自分の中で

「範囲」だとか「枠」だとかを

ちょっと意識するようになった。

 

それはきっと、

それらを知ることで自由になるために。

(枠を知ることは、

"全体"を見ることでもあると思う。

迷路を上から見れば、

どこに進みたいかを考えられる。)

 

言葉や物事の意味の範囲、

その人の生きている範囲、

気持ちや場所に付随する枠、

その人が何にがんじがらめになっているのか

 

もちろん自分ががんばってみて

見える範囲でしかないけど、

見えるとけっこう面白い。

 

少しずつ、ほぐしていけるかなあ。

自分の中で、がちがちに固まった

自分も、集団の在り方も、何もかもを。